『鬼滅の刃』とヨガの深いつながりとは?

こんにちは。リラヨガ・インスティテュートディレクターの乳井真介(にゅういしんすけ)です。
久々のブログとなりますが、みなさまいかがお過ごしでしょうか?

『鬼滅の刃』の最終巻である23巻が発売されました。私は普段あまり漫画を読まないのですが、一経営者として世間でブームになっているものはなるべく把握しておきたいという理由でアニメから入り、気がついたらどっぷり浸かってコミック全巻を大人買いし、すっかり鬼滅ファンになってしまった人間の1人です。

なぜここまで多くの人に『鬼滅の刃』がもてはやされているのか?作品を読んだことのない方には理解できないかもしれません。しかし、世の中でヒットするものには人間存在の核心を突く真理が必ず含まれているものです。今回は日本国民全体を巻き込んで空前のブームを巻き起こしている『鬼滅の刃』と、同じく女性の習い事1位となり、実践者が1000万人に到達する勢いがあると言われるヨガの深い深いつながりについて考察したいと思います。

ヨガ実践者の視点から見ると、『鬼滅の刃』にはヨガ哲学のエッセンスが凝縮されており、作者である吾峠呼界晴さんはヨガの実践者、しかも、深くヨガを知り尽くしたヨガマスターレベルの実践者であるようにしか思えないのです。その理由を一つ一つ解説していきます。

尚、この先の記述にはネタバレが含まれますので、コミックを全巻読み終えていない方や、これから『鬼滅の刃』を読み始めたいと思っている方は読まないようにしてください。

また、この考察はあくまで私自身の経験則に基づいた私的考察である事も強調しておきます。

以下ネタバレあり

型はアーサナ?

まず、主人公である竈門炭治郎を含めた鬼殺隊のメンバー達は鬼を倒すための様々な技の型を駆使していきます。一つの型を使いこなせるようになるためには相当の修練が必要であり、習得すべき型の数は数多くあります。これはまさにヨガのアーサナを習得していく過程と酷似しています。アーサナには立位、アームバランス、バックベンド、逆転(頭と胸の位置がひっくり返る姿勢)、座位という大きく5つのカテゴリーがあり、それぞれのカテゴリーに難易度の異なる様々なアーサナが散りばめられています。古典的なハタヨガの経典には32種類のアーサナが記されており、その後開発されたものを含めれば100以上のアーサナが存在すると言われています。全てのアーサナをあらゆる型を自由自在に使いこなす縁壱のように、バランスよく習得し、使いこなすことができれば理想なのですが、大抵のヨガ実践者には自分の得意なカテゴリーがあり、我妻善逸のようにたった一つのアーサナに極端に秀でた実践者がいるものです。炭治郎は最終的に10の型を流れるようにつなげながら、鬼たちと戦いますが、呼吸に乗せてさまざまなアーサナをつなげて行うことをヨガではヴィンヤサと呼び、上級の実践者になればなるほどヴィンヤサによってさまざまなアーサナを次から次に自由自在につなげて行うことができるようになります。しかも、呼吸と一体化して高い集中状態で行えば、どれだけ行っても疲れるどころか、むしろ体中にエネルギーが漲っていくのです。

「アーサナを習得すると、それ以後そのものは二元性によって乱されなくなる。」(『ヨーガ・スートラ』2.48)

「大切なのは、正しい呼吸と正しい動き。最小限の動作で、最大限の力を出すことなんだ。そうすると段々頭の中が透明になってくる」竈門炭十郎(炭治郎のお父さん)

呼吸とプラーナーヤーマ

次に、鬼殺隊のメンバーたちが鬼と戦う時に使うのが呼吸です。『鬼滅の刃』では呼吸にも複数の型があり、技の型と同等に呼吸をいかにうまくコントロールし、自由自在に使いこなせるようになるかが戦闘における重要な鍵として描かれています。ヨガでは呼吸法は「プラーナーヤーマ」と呼ばれます。「プラーナ」は生命エネルギー、「アーヤーマ」は「拡張」という意味で、「プラーナーヤーマ」という言葉は呼吸法を駆使することによって体内に生命エネルギーを漲らせていくことをさします。古典的な経典には12種類のプラーナーヤーマ(呼吸法)が記されており、アーサナによって身体が十分鍛錬された後には、呼吸を自由自在に操れるようになることが重要である述べられています。呼吸のコントロールは生命エネルギーの流れをコントロールすることに繋がり、生命エネルギーをコントロールすることで私たちは身体全体に生命エネルギーを漲らせ、炭治郎のお父さんのように、どれだけ動いても疲れない身体を手に入れることができるのです。

「アーサナが習得されたら、呼気と吸気のコントロールを行う。これがプラーナーヤーマである」(『ヨーガ・スートラ』2.49)

集中の種類

そして、型と呼吸が組み合わさった時に生まれるのが「全集中」の状態、つまり一つの対象に対して全エネルギーを注ぎ込む境地です。この「全集中」の状態をいかに高め、保ち続けることができるかが、強い鬼と戦う上での最終的な鍵を握っています。ヨガでは集中を3つの段階に分けます。ある一つの対象にエネルギーを集中させ始めるのがダーラナー(集中)。その集中のエネルギーが強くなり、集中していた対象と一体化するのがディヤーナ(瞑想状態)。集中が極限まで高まった時に生じる恍惚状態をサマーディ(三昧)と呼びます。炭治郎はこの全集中の状態で鬼の弱点を見破る隙の糸(急所)を見出し、見事に攻撃していくのですが、それができるのは極限まで高まった集中力によって自らの波長を集中している対象(鬼)の波長に完全に合わせることができているからです。ヨガでは集中状態が極限まで高まった時、その対象のすべてをコントロールすることができるようになる(綜制=サンヤマ)と言われていますが、炭治郎は戦いにおいてまさに「全集中」することで鬼という対象に波長を合わせ、弱点を見抜いていくのです。

「ある一つの対象に対して、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三枚)することをサンヤマ(綜制)と呼ぶ」
(『ヨーガ・スートラ』3.4)
「サンヤマの修了によって知の光が生まれる」(『ヨーガ・スートラ』3.5)

透明な世界とプルシャ

私たちの集中力が極限まで高まったとき、私たちは目の前の世界の波長を完璧に読み取り、目の前の世界と完全に波長を合わせることができるようになります。この時私たちは世界を作り出している宇宙のエネルギーと一体となります。ヨガの原義は「結合」つまり「つながり」です。身体を鍛え、呼吸法を駆使し、集中力を極限まで高める事で、私たちは目の前の対象の本質を理解し、波長を合わせ、つながり合っていくことができます。その先に現れるのが、「透明な世界」つまり宇宙エネルギーと完全に一体化した光の世界なのです。ヨガではこの宇宙エネルギーと一体化した究極の境地をプルシャ(真我)と呼び、ここに至ることがヨガのゴールであるとされています。類まれなる剣の達人である縁壱は常にこの宇宙エネルギーと一体化した透明な世界=プルシャにとどまり続けられる稀有な存在でした。ヨガでは縁壱のように常にプルシャに留まり続けることのできる境地に達した人間をジーヴァン・ムクタ(生前解脱者)と呼び、神に近づいた特別な存在として崇めます。唯一ヨガのゴールに留まり続けることのできる希代の剣豪に”縁壱”、縁(つながり)を壱(大事にする)という名前をつけたところにも作者の深い意図を感じざるを得ません。炭治郎もやがて縁壱と同じように、この透明な世界に留まることができるようになりますが、常に宇宙エネルギーと一体化していることが、鬼舞辻無惨を倒すために必要な唯一の突破口となるのです。

「自然の透明な水晶がかたわらに置かれたものの色や形を取るように、作用が完全に衰微したヨーギーの心は透明となって、知るものと知られるものと知との区別のない状態に達する」(『ヨーガスートラ』1.41)

鬼の正体とは

ところで、炭治郎たちが戦おうとしている鬼とは本当のところ何なんでしょうか?鬼という存在を、私たちのうちに潜むエゴの象徴だと考えてみると、『鬼滅の刃』に隠されているもう一つのテーマが見えてきます。エゴとは自分よければ全てよしと考える私たちの性向です。鬼たちの大将である鬼舞辻無惨はまさに自分のことしか考えないエゴの塊です。自分自身が豊かさを手に入れ、長生きするためならどんな手段も選びません。かわいい部下も、自分自身への助言者も、無惨にとっては自分自身のエゴの欲求を満たすためのコマの一つにしか過ぎません。

『鬼滅の刃』が生まれる遥か昔、今から2000年前に成立したとされるインドの二大叙事詩である『ラーマーヤーナ』と『マハーバーラタ』にもそれぞれラーバナとドウルヨーダナという、無惨と全く同じようなエゴの塊である悪魔や悪役が登場し、その強力なエゴで主人公のラーマやアルジュナたちを翻弄し、苦しめます。しかし、物語の主人公たちは自分自身のうちに存在するエゴと葛藤しながらも、仲間たちとともに手を取り合って、最終的にエゴの象徴である宿敵を打ち倒すのです。自らの務めを正しく果たすことのできる正義のヒーローがエゴの塊である悪を打ち倒すというストーリーはこのように2000年以上も前から多くの人々の間で語り継がれてきました。

「自ら自己を高めよ。実に自己こそ自己の友であり、自己こそ自己の敵である」(『バガバッド・ギーター』6.5)

ダルマの遂行と悪

ヨガでは自らの人生の務めをきちんと果たすことをダルマ(義務)と言います。私たちの人生は常に自らのうちに生じるエゴとダルマの戦いです。「やりたいこと」をとるか、「やるべきこと」をとるか。炭治郎や柱たちは、古代の伝説に登場する正義のヒーローたちと同じように自らのエゴに打ち勝ち、自らの果たすべき務めを遂行していきます。しかし、私たちの多くは普通そこまで強くありません。そこまで完璧にエゴを封じ込めることはなかなかできないのです。わかっていながら、どうしよもなくエゴの力に負けてしまう事も時にはあるでしょう。『鬼滅の刃』では様々な状況下でエゴに負け、鬼と呼ばれる存在になってしまった鬼の過去も克明に描かれます。例えば猗窩座(あかざ)という鬼は過去、大恋愛の末に結ばれたを最愛の人を周囲の人間の嫉妬によって撲殺されます。もし同じことが自分の身に起こったら、果たしてどれだけ多くの人々が正気を保てるでしょうか?すべての人間を信じられなくなり、世の中を憎み自暴自棄になりたくなるのも当然かもしれません。

私が一番好きな鬼は累(ルイ)という少年の鬼ですが、累はもともと病弱な少年で、外に出て走ることもできませんでした。強い肉体に憧れて無惨の血を飲み、鬼となるのですが、鬼は人を殺して食べなければ生きていけません。両親はそれを止めようと累を殺し、心中を図ろうとしますが、累は親に裏切られ、自分のみが殺されるものだと勘違いし、両親を殺してしまいます。それ以降累は鬼の心を増長させ、偽りの家族を作ることを部下の鬼たちに命じるのですが、決してその心は満たされることがありません。生まれ育った境遇や、人生が困難なときにどのような人物に出会うのか、ちょっとした思い違いや勘違いで、人はいつでも鬼や犯罪者になりうるのである。累のストーリーは私たちにそんな事実を伝えてくれます。自分自身の内に宿るエゴとの戦いにおいて、正気を保ち、正義のヒーローになるか、それともエゴに負けて鬼や犯罪者になるか。実はそれは本当に紙一重なのです。この事実を考えた時、私たちはエゴに負けて罪を犯した人間を簡単に非難することはできなくなるはずです。

「知識ある者の知識はこの永遠の敵に覆われている。アルジュナよ、欲望という満たし難い火によって」(『バガバッド・ギーター』3.39)

悪を許す力

今から2500年前、仏陀はやむを得ない事情から殺人鬼となり、99人の罪のない人間を殺したアングリマーラを許し、自らの弟子にしました。以降、仏教では四無量心(しむりょうしん)と言って、慈悲喜捨という四つの心を他者に対して持つことが重視されるようになりました。慈とは他者の幸福を慈しむ心、悲は他者の不幸を悲しむ心、喜は他者の徳を喜ぶ心、そして捨は他者の不徳、つまり悪事を見なかったことにする心です。

累の両親は自らを殺した累を許し、地獄まで共に向かう決意をします。また、猗窩座の妻である恋雪は殺人鬼と化した猗窩座とそのきっかけを作ることになった自らを撲殺した人間たちの悪を許します。聖書には「右の頬を打たれたなら、左の頬を差し出しなさい」という有名な言葉が記されていますが、自らを傷つけた相手をも許し、その望みのままに身を差し出す姿勢こそ究極の人間愛だと言えるでしょう。『鬼滅の刃』にはこのような悪をも許すことのできる究極の人間愛が随所に描かれています。主人公たちの偉大なる人間愛に触れた時、ちょっとしたことすら許すことのできない己の器の小ささに気づき、人は涙するのです。

炭治郎が多くの人を殺した鬼たちに対してもどこまでも優しくいられるのは、炭治郎が人間の持つ心の弱さを許すことのできる四無量心の持ち主であり、鬼も人間も紙一重の違いに過ぎないことを見抜いていたからに他なりません。炭治郎が背中に背負う禰󠄀豆子の箱は、キリストが背中に背負った十字架のように、隣人愛の象徴なのではないでしょうか?炭治郎に斬られた鬼たちが最後は安らかな表情でこの世から溶けるように消え去っていくのは、いろいろな人生のしがらみの中で鬼にならざるをえなかった人たちが、炭治郎の偉大な隣人愛によって自らを苦しめていたエゴから解放されていく様を表現しているように思えます。

「他の幸福を喜び、不幸を憐れみ、他の有徳を喜び、他の不徳を捨てることによって、心は乱れなき清澄を保つ」(『ヨーガ・スートラ』1.33)

エゴに打ち勝ち、つながりに満ちた世界へ

自らの身体を投げ出し、妹のために、家族のために、握りたくもない刀を握り、鬼と戦うというダルマを遂行し続ける炭治郎や柱たちの姿に私たちは大きな感動を覚えるのですが、ストーリーのラスト近くで、それまでエゴを捨てて戦い続けてきた炭治郎もついに鬼になってしまいます。炭治郎ほどの純粋な心の持ち主でも、時にエゴにその心を奪われ、鬼のようになってしまうことがありうるのである。このシーンはそんな象徴のようにも思えます。そのまま究極の鬼となって無限の強さと不老不死を手に入れ、全てを自分の望むがままにできる世界と、人間として限りある力を携えたまま限りある寿命を生きる世界、炭治郎はその二者択一を迫られます。そして、最後に炭治郎が選んだのは。。。

「自己のダルマに死ぬことは幸せである。」(『バガバッド・ギーター』3.35)

さまざまな経験を通して、究極的には全ての存在が宇宙のエネルギーでつながり合っていることを知ること。このたった一つの事実を学ぶために私たちは人生を生きているのだとヨガでは考えます。目の前の存在すべてがつながり合っていて、自分だけが独り占めすることでは、人は生きていくことはできないのだという事実を知ったとき、世の中の全ての存在の過ちを許せるようになり、私たちの心は乱れることのない清澄さと安らぎで満ちていくのです。

「ヨーガとは心の作用の止滅である」(『ヨーガ・スートラ』1.2)

「アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等のものと見て、ヨガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨガは平等の境地であると言われる」(『バガバッド・ギーター』2.48)

以上、思い入れたっぷりにヨガと『鬼滅の刃』の深い関係性について語らせていただきました。作者の吾峠呼世晴さんが果たしてヨガを学んだことがあるのかどうか私にはわかりません。しかし、いずれにせよ『鬼滅の刃』には2000年ほど前に成立したインド二代叙事詩に匹敵するほどの人生の真理が散りばめられているのがお分かりになりましたでしょうか?まさに現代版の偉大なる叙事詩なのです。これだけ多くの人々が熱狂するのも無理はありません。

さあ、今日もこの世界という無限城で、次々と現れるエゴという鬼に打ち勝ち、つながりに満ちた透明な世界に辿り着くために、ヨガという日輪刀を赤く染めて一緒に戦っていきましょう!

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