Yoga Philosophy

ヨーガの基礎知識その2

 

ウパニシャッド

バラモンたちによって執り行われたヴェーダの自然神崇拝の儀式の形態は時代を経るに従って少しずつ洗練されていき、儀式を執り行う彼らの役割分担も進みました。ヴェーダの自然神崇拝の形態にも大きな変化が現れ、紀元前800年頃から『ウパニシャッド』と呼ばれる聖典群が生まれ始めます。 “ウパニシャッド”は“傍らに座る”という意味をもつ言葉で、一般に「奥義書」と訳されます。師の傍らに座った弟子が師から秘密裏に伝授された古代インドの智恵の奥義がウパニシ ャッドという形で結晶化したのです。

これらの智恵の奥義は天から授けられたものとされているため、ウパニシャッドは 「天啓聖典」とも呼ばれます。また「ヴェーダーンタ(最後の ヴェーダの意)」はウパニシャッドの別称です。ウパニシャ ッドは紀元前800年頃に誕生し、起源後になっても作られ続けました。その数は全部で百以上にのぼります。この百以上あるウパニシャッドに共通して描かれているのが「梵我一如」という思想です。全てのウパニシャッドは梵我一如の思想を扱っています。そして、このウパニシャッドが説く梵我一如の思想が体系化されていく過程で誕生したのがヨーガというシステムなのです。ですから、梵我一如について正しく理解することはヨーガの原点を知る上では避けて通れません。では、 古代インドの賢者たちが辿り着いた梵我一如の思想はどのようにして形成されていったのでしょうか? 梵我一如の思想を繙くためのキーワードがブラフマン(梵)とアートマン(真我)という二つの言葉です。 

 

ブラフマン

ヴェーダ文化が誕生した当初、バラモンたちは個々の自然神に個々の祭壇を設け、賛歌を歌い、祭祀を行っていました。 しかし長年にわたって祭祀を続ける中で、バラモンたちは 個々に自然神を扱う自分たちの儀式の執り行い方に疑問を投げかけるようになります。「見た目では区別ができるけれど も、実は一見異なるように見える自然現象同士はその背後ではつながり合っているのではないか?」と。たとえば海から 生まれた水蒸気は雲を作り、雨を降らせます。その雨が川を作り、川は海に流れてまた雲を作ります。このような自然界の大きな循環に目を移した時、どこまでが海で、どこまでが雲で、どこまでが川なのか、厳密な区別をつけるのは難しくなります。

自分たちが区別していたさまざまな自然現象はじつは水の循環と同じように、その背後でつながり合っている。そのような観点が深まるごとに自然神たちの統廃合が進んでいきま した。そして、最終的にバラモンたちは全ての自然現象の背後に共通して存在する一つのエネルギーの存在に辿り着きます。その“大いなるエネルギー”をバラモンたちは“ブラフマン=梵”と呼びました。水が時に海になり、時に水蒸気になり、時に雨になって循環するのと同様に、私たちの目の前に広がる世界も形を変えながら刻一刻と循環するブラフマンの現れであり、一見形は異なり、区別できるように見えても、 その背後では全ての存在がつながり合っている。

これが自然神崇拝の儀式を続けた先にバラモンたちが辿り着いた最終的な結論でした。もしそうだとしたら、全ての区別性の背後に存在するこのブラフマンにアクセスできなければ、個々の自然神にいくら豪華な儀式を行っても意味はありません。万物の背後に満ちているブラフマンの存在を看破し、ブラフマンに直接アクセスするための方法がバラモンたちに求められるようになったのです。

 

パンチャ・マーヤー・コーシャ(人間五蔵説)

目の前に広がる世界の本質を探る一方で、バラモンたちは祭祀によって自然神の恩寵を得ようとしている当の自分自身の本質に対しても探求を続けました。紀元前800年頃に成立したとされる『タイッティリーヤ・ウパニシャッド』では、 私たち人間の存在を「5つの異なる自分の現れの複合体」であるとする「パンチャ・マーヤー・コーシャ(人間五蔵説)」 という考え方が紹介されています。“パンチャ”は“五”、“マ ーヤー”は“幻”、“コーシャ”は“鞘”という意味です。えんどう豆の鞘のように、鞘は何かを包み込むものです。ロシアにマトリョーシカという1つの人形の中に大きさの異なる人形が入れ子状に収められた人形がありますが、私たち人間の存在もマトリョーシカと同じように5つの鞘で包み込まれた「自分」の複合体であると古代インドの賢者たちは考えたのです。

5つの鞘は外側から食物鞘、生気鞘、意思鞘、理智鞘、歓喜鞘と呼ばれます。水は見方によって「飲料用の水」、「水蒸気の集まり」、「H2O」、「原子の集まり」、「素粒子の集合体」など、その粗大な性質にフォーカスするか、微細な性質にフォーカスするかで私たちに対する現れ方が変化します。私たち人間の存在も一緒です。5つの鞘は人間を構成する同じエネルギーの異なる次元の現れ方を表しており、外側の鞘は粗大な質にフォーカスした時の現れ方、内側の鞘は精妙な質にフォーカスした時の現れ方を表しています。食物鞘はもっとも粗大な鞘で、歓喜鞘はもっとも精妙な鞘です。

1. 食物鞘
肉体は人間存在を作るエネルギーのもっとも粗大でわかりやすい現れです。肉体は食べ物で作られているので、肉体の レベルの自分は「食物鞘」と呼ばれます。多くの人にとって身体の内側は「自分の領域」、身体の外側は「自分以外の領域」であり、肉体(皮膚の表面)が自と他を分ける境界線になります。肉体が無くなってしまえば、「自分」と「自分以外」の 明確な境界線を策定するのは困難です。それゆえ、私たちの 多くは「自分」を失わないようにするために肉体よりなる食物鞘を維持することに強くこだわるのです。

2. 生気鞘
肉体に生命としての躍動を与えているのが生命エネルギー =プラーナです。「生気鞘」はプラーナによって成り立っており、食物鞘よりもより微細な身体を作っています。この微細な身体は「微細体」と呼ばれ、目で見たり触れたりすることはできません。微細体は外部世界とつねに呼吸を通してプラーナの交換を繰り返しています。プラーナが十分満ちている時、私たちの気分はよくなります。また、プラーナが何らかの事情で減少すると病気になり、プラーナが完全に無くなると私たちは死を迎えます。

3. 意思鞘
「意思鞘」は私たちの意思すなわち思いにより作り出される鞘です。フランスの哲学者デカルトの言葉に「われ思う故 に我あり」という有名な言葉がありますが、意思鞘を構成する思いや感情は生気鞘よりもさらに精妙な「自分がいる」という感じを生み出します。脳死の状態はこの意思鞘が失われた状態で、たとえ呼吸によって生命を維持することができて も、「自分」という主体は消失してしまいます。

4. 理智鞘
「理智鞘」は精神性により構成される鞘です。この鞘は意思鞘の自分よりもさらに精妙な自分のあり方を生み出します。 理智鞘を構成する精神性には「自由」、「勇気」、「愛」、「向上心」、「堅固さ」、「しなやかさ」、「寛大」、「遊び心」、「大胆」、「不屈」、 「やわらかさ」、「身を委ねる」など、さまざまな要素があります。 私たちの多くは普段このような自分の内に存在する精神性の存在に十分に気づいていません。

5. 歓喜鞘
最後に「自分」を作るもっとも精妙なレベルの鞘が至福のエネルギーでできた「歓喜鞘」です。この歓喜鞘が生み出す至福のエネルギーは私たちの至福感のあり方を左右します。 歓喜鞘のエネルギーが存分に解放されると私たちは至福感に包まれ、歓喜鞘のエネルギーが制限されると虚無感や絶望感 に苛まれます。

このようにパンチャ・マーヤー・コーシャでは私たち人間 の存在は「肉体」、「生命エネルギー」、「意思」、「精神性」、「至福感」という5つの異なる次元の「自分を作り出す鞘」の複合体でできていると考えます。これらの5つの鞘は一つの エネルギーでできているので、ある鞘に生じた変化はすぐさま他の全ての鞘に影響を与えます。たとえば食物鞘(肉体レ ベル)が空腹状態になると、生気鞘の生命エネルギーが落ち、 意思鞘ではイライラがつのり、理智鞘では寛大さという精神性が薄れ、歓喜鞘では至福感が失われるといった具合です。

 

アートマン

皮膚という境界線の内側に5つの異なる次元の自分が存 在している。「自分」という存在を探求し続けた結果、バラモンたちはこのパンチャ・マーヤー・コーシャの考えに辿り着きました。しかしここで少し立ち止まってみると、皮膚という境界線の外側に存在しているのは、先ほど述べたように 「ブラフマン」という一つながりの大いなるエネルギーのみであるというのがもう一つのバラモンたちの結論でした。私たちの肉体は外部世界から手に入れた食べ物でできています。 外部世界にブラフマンが偏在しているのであれば、食べ物もブラフマンの現れであり、その食べ物で作られた食物鞘はやはりブラフマンでできていることになります。同様に生命エ ネルギーを保つためには呼吸によって外部世界からプラーナを取り入れなければなりません。外部世界に満ちているプラ ーナがブラフマンの現れだとしたら、生気鞘もはやはりブラフマンでできていることになります。同様に意思鞘、理智鞘、 歓喜鞘も結局はブラフマンの現れの一つであると考えざるをえなくなります。

私たちが確かに存在していると思い込んでいる「肉体」、「生 命エネルギー」、「意思」、「精神性」、「至福感」。そのどれもが宇宙規模で循環する一なるエネルギー「ブラフマン」の現れなのだとしたらどうでしょうか? 皮膚という境界線は実在しない幻の境界線であり、「自分」と「自分以外」の区別など存在しないのである。「自分」というマトリョーシカは幻 (マーヤー) だった。これが長い思索の末にバラモンたちが辿り着いたもう一つの結論でした。そしてバラモンたちはブラフマン、つまり宇宙全体とつながりあった「無境界の自分」を、5つのレベルのエネルギーよりなる幻のマトリョーシカとしての自分と区別して「アートマン=真我」と呼びました。

 

梵我一如

私たちが「これが自分だ」と思い込んでいる実体の本質は、 突き詰めていくと「アートマン(真我)」であり、そのアートマンは世界の背後に満ちている大いなるエネルギー「ブラフマン(梵)」そのものである。このような思想を「梵我一如」と呼びます。そして、この梵我一如こそが古代インドの賢者たちが度重なる思索の末に辿り着いたこの世の真理に対する究極の結論なのです。序章にて「ヨーガ」が「結合」、「つながり」 を意味する言葉であることを述べましたが、ヨーガの意味する究極の「つながり」はこの梵我一如の境地、すなわち「世界」 と「自分」が完全に一体になった状態を指します。ウパニシャッドにはバラモンたちが辿り着いたこの梵我一如の境地がさまざまな表現形式で記されています。

紀元前800年頃に成立したとされる最古のウパニシャッドの一つである『チャーンドギャ・ウパニシャッド』ではバラモンの父が息子のシヴェータケートウにこの梵我一如の思想を伝授するエピソードが描かれています。

「ここにガジュマルの実を一つ持っておいで」
「はい、ここに持って参りました」
「それを割ってご覧」
「割りました父上」
「その中には何があるかね?」
「小さな穀粒のようなものがあります」
「その中の一つを割ってご覧」
「割りました。父上」
「その中には何があるかね?」
「何もありません、父上」
 「その中にお前の目には見えないくらいの小さなものがあって、それからこのような巨大なガジュマルも生 えてくるんだよ。だからおまえこういうことを信じなさい。『このちいさな物こそ万生の本性(アートマン) をなすものであり、真実在(サティヤ)であり、自我 (アートマン)であり、そしてお前自身である』とな」

『チャーンドギャ・ウパニシャッド』6.12.1

また、同じく紀元前800年頃に成立したとされる最古のウパニシャッド『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』 は非常にシンプルな経文で梵我一如の神髄を表現しています。

あれも全体
これもまた全体
全体より生ずるは
つねに全体だからである
全体より全体を取り出すとも
見よ 残るは全体である

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』5.1.1

このようにウパニシャッドはたとえ話やシンプルな経文を用いることで、直感的に梵我一如の真理をつかむように私たちを促します。真理の探究者の中には直接的な表現を好む者もいれば、比喩や象徴を使ったほうがピンとくる者もいます。 手を変え、品を変えながら、古代の聖者たちは自らが辿り着いた梵我一如の境地について語り続けました。百以上あるウパニシャッドにみられるさまざまな梵我一如に関する記述は、 なんとも捉えがたいこの梵我一如の思想をいかにして正確に伝授したものかという聖者たちの試行錯誤の現れなのです。 一部の極めて優れた洞察力をもった探究者たちはウパニシャッドに記された経文一つで瞬時に梵我一如の真理を見抜くことができました。しかしその他の多くの探究者たちにとっては梵我一如の思想を理解するのはそう容易ではありませんでした。

そんな中で紀元前500年頃、仏陀が誕生します(生年に関しては諸説あり)。仏陀の生活密着型のわかりやすい説法は、 難解な梵我一如の思想を理解することに苦しんでいた多くの民衆たちを魅了しました。そして一気にインド中に仏教が広がることになります。そのような状況の中でバラモンたちは大きな危機感を抱き、より体系的かつ論理的に梵我一如の思想を説明する必要性に迫られるようになりました。そして、 梵我一如の思想を整備する過程で、バラモンたちは「インド 六派哲学」という6つの学派を生み出します。

 

サーンキヤ

インド六派哲学の中で最古のものは紀元前400年~300年頃、カピラが打ち立てたとされる「サーンキヤ学派」です。このサーンキヤ学派の理論をベースに、その実践編として誕生したのが「ヨーガ学派」です。パタンジャリが著したとされるヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』はこのヨーガ学派の根本経典です。また、もう一つのヨーガの根本経典『バガバ ッド・ギーター』も同じくサーンキヤ学派の理論の影響を色濃く受けています。つまりサーンキヤ学派の理論はヨーガ実践の理論的ベースとなる取扱説明書のような役割を果たして いるのです。

取扱説明書なしに何かの機械を操作しようとすると、その操作によって何が起こるかは経験と勘に頼らざるをえません。このレバーを動かすと何が起こり、このボタンを押すと何が起こるのか。操作を続けていくうちにある程度の操作はできるようになるかもしれませんが、その機械にはレバーとボタンをある法則で組み合わせた時にだけ起こる特定の機能が備わっているかもしれません。取扱説明書によく目を通さなければ機械のポテンシャルを十分に引き出すことはできませんし、操作は不安定なものになってしまうでしょ う。同じようにヨーガの実践も、経験と勘に基づいてある程度のところまでは深めることができるかもしれません。しかし、サーンキヤ学派の理論を知ることで、ヨーガの目的地とその方法論の意味が明確になり、ヨーガの実践をより確実に深めていくことができるようになるのです。

サーンキヤ学派(以下サーンキヤ)では私たちの目の前に広がる世界を25の原理で説明しようとします。私たちの目の前に存在する世界を構成する要素を一つひとつ分析していくと、最終的に25の原理に行き着くとサーンキヤでは考えます。今私たちの目の前に広がる世界、私たち自身の存在も全てこの25の原理のどれかに当てはまります。25の原理の 大元となるのはプラクリティとプルシャという2つの原理です。

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一般に“プラクリティ”は“根本原質”、“プルシャ”は“真我”と訳されます。ごく簡単に説明すると、プラクリティはこの世の区別性の大元にある原理で、この世の全ての区別はプラクリティより生まれます。それに対してプルシャは一切の区別が存在しない世界を指します。海を表面から見れば無 数の波が生じているように見えます。この無数の波、つまり この世の区別性が現れるのがプラクリティよりなる世界です。 一方海に潜ってしまえば一切の波を区別することはできなくなります。全ての波は同じ海が形を変えているだけであることがわかるからです。このように、この世の区別性の背後 に偏在している一なる存在が現れるのがプルシャの世界です。 海が存在する限り、それを表面から見る世界と潜って見る世 界が分かれるように、プラクリティとプルシャはつねに分か れています。このプラクリティとプルシャを見分けることのできる力を「ヴィヴェーカ(識別力)」と呼びます。

そもそも原初の宇宙という海には一切の波がありませんでした。ビッグバン以前の宇宙は超高温の一塊のエネルギー体 であり、それを表面から見ようと、潜って見ようと、そこに は一つながりの海=エネルギー体しか認めることができなかったのです。この原初の宇宙に満ちていたとされるバイブレ ーションが聖音「オーム」です。その静かな原初の宇宙とい う海の表面に風が吹くことで、プラクリティよりなる世界に波=区別が生じました。プラクリティに区別性と生成変化を生み出した風は「サットヴァ」、「ラジャス」、「タマス」とい う3つのグナ(要素)です。“サットヴァ”は“純質”と呼ばれ、 高い振動数をもち、この世に純粋さと光をもたらす要素です。 “ラジャス”は“激質”と呼ばれ、振動数を変化させ、この世に動きと変化をもたらす要素です。“タマス”は“暗質”と呼ばれ、振動数が低く、この世に停滞と闇をもたらす要素です。 これらの3つの要素はプラクリティに作用し、その振動数を変化させることでこの世にそれぞれ「光」、「動き」、「闇」と いう波を生み出しました。

以上、乳井真介著『ヨーガの魔法』第一章より

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